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the way 等身大の20歳。

2016年カミーノ〜

10月27日(木)


いくら子育てを社会的に支援し、つまりは子育てにかける時間を減らしたところで、人がこどもを育てたいという気持ちになるだろうか。むしろ、こどもを育てるということは生き甲斐であり、時間をいかに節約するかというものではない。プライベートと仕事は分けて考えられるが、仕事においても、現在人々は高給よりも生き甲斐を切望している傾向にあることを十分に踏まえなければならない。政府は働き方改革を進めている。テレワークや副業を認めるといった試みが検討されている。世界でも稀なほどの長時間労働が当然とされ、過労死などという異常な事件が起こる我が国では、そういった制度改革は必要不可欠な課題だろう。一方それと同時に、わたしはそういったハード面だけの問題ではないと考える。つまり、高度経済成長という歴史を背景に進んできた日本人の国民性、あるいは文化が、働く環境に大きく影響している。「自分を、あるいは身内(家族)を謙遜し、他人に、人様に迷惑をかけない」という日本人の潜在意識と、「自分(家族をも含む)の権利はしかるべく主張する」という西欧の意識は根本的に全く違う。たとえ同じように、子育てのための時間確保という権利が制度的に保障されたとしても、その活用度合いが違ってくるのは当然なのだ。家族は、以前ほど同心一体でない。父親を大黒柱にそれを支え合い、家族がひとつの単位として生きている時代から、ひとりひとりのライフスタイルがあり、生き甲斐がある時代へと変わっている。つまりは、家族を自分と同様に謙遜し、人様と交流していては成り立たない時代なのだ。むしろ、個々が、人様と同じように、家族に対してもリスペクトを持って共に時間を分かち合うべきであり、それをプライベートなことだと低度に見ることから、意識を変えなければならない。そこで初めて、自分の生き甲斐を認め、家族との関係を素直に考えられ、それぞれが生き方を模索できるようになるのである。

 

 つまりは、人のことを考えて思いやる腰の低い日本人の姿勢はとっても素敵な文化だけど、その謙遜の中に家族をいれてるから、仕事以外の生き甲斐が奪われてしまう社会になってるんだと思うってこと。個人主義の西欧の真似をするんじゃなくってむしろ、他人主義を家族単位ではなく個人単位にシフトすることが、日本人のうまい生き方じゃないかなって思う。

 アルゼンチンにいた時や、フランス人、イタリア人が家族や友人とゆっくり日向ぼっこしたりご飯を食べてるのを目にしたとき、日本人って、精神的な充実の仕方を知らない、クールな国民だと思った。寂しい文化だと思った。でもそうじゃなくって、ほんとは誰よりも繊細で他人を思いやるからこそ現在はこんな形に現れてしまっているんだと思う。家族や友情をないがしろにしてるわけじゃない。むしろそれらは密接に自己と心のなかで繋がっているもので、だからこそ自己と同じように謙遜して後回しにしてしまうのだと。

 無言で勝手に部屋の電気はつけるわ、相手の気にしてそうなこともあっさりズバッと口にするわ、そんな西洋の文化にイラっとしたり、逆にまっすぐに意見を述べてくれるさまざまな言葉に救われたり。現地でたまに会う日本人の無言の気遣いに感動したり、逆に日本に帰ってきて、わかってるくせに、無駄な羞恥心や出る杭打たれぬように、教室全員が先生に無反応だったときに、日本の文化にイラっとしたり。

 それぞれの違う文化を、自分なりに認めなければならないと思う。西洋が良いみたいに思っちゃう日本人の心も、それ自体が日本人らしい文化だ。

 それぞれの文化に触れたとき、あ、これいいな!って思う瞬間がある一方で、嫌やって思うことがある。それは自国、他国は関係ない。今までわたしが触れてきたさまざまな文化で、これが一番!最高!なんてものはない。各々で好きなところや嫌なところがあって、しかもそれは場合によって違うかたちで現れる。

 だけどいまわたしが感じているモヤモヤは、日本の文化が嫌い!とかじゃなくって、時代の流れに文化や社会がうまく追いついていないからだと思う。優しい日本人が大好き。でも、いまのこの状況の我が国で働いて子育て両立して、っていう未来を送りたいっては思えない。たとえ保育園が増えて、休暇の制度が増えても。おばあちゃん家に行ったり、パパと出かけに行ったり、家族でごはんを食べたり。昔のように多世代が一緒に暮らすのとは真逆。個人としてそれぞれが、家族にリスペクトをもつべきじゃないのかな。